竹之下大橋と西町の歴史 【説明版】

たけのしたおおはしとにしまちのれきし

 

江戸時代では最も大きな橋がこの竹之下橋でした。今は大淀川ですが、当時はこの付近は竹之下川と呼ばれ、全体は赤江川と呼ばれていました。

大淀川は、曽於市末吉町の山間部に源流を発し、都城市のほぼ中心部を流れています。

大淀川は都城市域でも多くの支流を集め、高城町の峡谷を流れて、宮崎市の赤江から日向灘に流れこむ宮崎県最大の河川です。

大淀川は古くから人びとの生活にとって欠くことのできないもので、城館も川沿いに築かれ、大淀川をいかに抑えるかが、都城領域を支配する鍵となっていました。

それは、生活用水としての機能だけでなく、流通のための経路としても機能するものでした。

寛政2年(1791)に時の領主島津久倫(ひさとも)は赤江川の観かん音のん瀬ぜ を開削して、宮崎の赤江港(宮崎港)までを河川運輸路として、藩の経済の活性化に役立たせました。

現在の西町は江戸時代には新町と呼ばれていたところで、三重町と後町が新たに移ったときに両町を合わせた町の名称です。

1615年の「元和の一国一城令」のときに、本町に隣接する蔵之馬場筋に移転する予定で屋敷割りも済んでいましたが、三重町・後町が移ると、その場所からは城を見透かして本丸跡の蔵がみえるといことで、城山のまわりの草木が茂ってから移ることになり、元禄5年(1692)に三重町・後町からの訴えによって、ようやく新地に移転しました。