秋永屋敷跡 【標柱】

あきながやしきあと

秋永屋敷は、室町時代にこの地域(上長飯と下長飯)を治めていた秋永蔵くろ人うどの屋敷の跡です。

秋永蔵人の力をうかがわせるものに秋永堀があります。

これは、文明年間(1469~1487)に、秋永蔵人によって造られたといわれ、宮丸堀から東へ数町のところを、北から南へ100間(約180m)ほど堀切って造られたものです。

宮丸掘は、市内東部天神の台地を掘って、一万城の池から流れている川の水を引いて宮丸に注いでいたものです。

これは宮丸蔵人が自ら領する土地の生産力を拡大するために設けたものと伝えられ、その規模は、幅が2間~3間(1間は約1.818m)、深いところでは3間もあり、長さは10町余り(1町は約109m)あったといいます。

その宮丸堀に流れていく小川(柳河原川)の水上から水を引き、市街地の東南、秋永屋敷跡付近に注いでいたのが秋永堀です。

その規模は堀の深さ1間半(約2.7m)、幅3間(約5.5m)ほどでした。また、彼は今の都城島津邸の場所に早鈴大明神を建設したといいます。