新地移りと都城のまちづくり【説明板】

しんちうつりとみやこのじょうのまちづくり

 

元和(げんな) 元年(1615)に、幕府から大名の居城以外は破却せよという、一国一城令が発せられ、8月に都城も廃城となり、新たに都城領主館を現在の都城市役所と明道(めいどう)小学校の敷地内の北に建設しました。

軍人山(旭丘(ひのお)神社)を中心に東西360m、南北270mの規模の領主館が建設され、それにともなって、町場の移動も行われました。

また、新しい領主館を中心に家臣の屋敷も造られ、家臣の居所の移動も行われたものと思われます。

近世の都城の町には、本町(ほんまち)・三重町・後町・唐人町(とうじんまち)・平江町(ひらえちょう)があり、平江町は三日町(みっかまち)と八日町(ようかまち)から成っていました。

これらの町がそれぞれ野町(のまち)として、都城の商業の中心地として位置付けられ、その中で都城の町場の中心となったのが、現在の上町である本町と中町である唐人町でした。